峠 正丸峠

 

峠、サイクリストにとってこの地 この言葉は日本の郷愁や旅という概念を

想像させる響きの良い言葉 と思っている。

狭い国土の日本では必ず峠に巡り合う。峠 一つ境界を表す地でもある。

 

初めて越えた峠は、奥武蔵の正丸峠だった。40年前の正丸峠は、今のようにトンネルがあるわけでなく、正丸駅から勾配を増して登っていった。

当時、サイクリング車は世の中にあるにはあったが、私の持っている自転車は5段変速セミドロップ、リア ディスクブレーキと超重たいものであったが、無知とは恐ろしいもので、サイクリング車と謳っているのだから大丈夫と勝手な認識に元、この自転車で自宅の神田から秩父秩父湖を目指したのだった。

 

朝、4:00に家を出て、八王子経由でR16を行き、飯能を過ぎると田舎の風景になり、踏切を越えると、奥武蔵山塊へ入っていった。

正丸峠に着いたのは昼も過ぎた15:30頃だったろうか?今まで降り続いていた雨も、ようやく小降りになり、初めての苦しい峠を越えた気持ちはあーこれから下れる という

解放感であったが、まだ先の行程が長く、あとどのくらい時間が掛かるのだろうか?

心配もあった。

秩父の町へ下り、また、そぼ降る雨の中をR140をひたすら秩父湖を目指して走って行った。途中、大輪 という集落で本日の泊りの秩父YHへ連絡を入れ『あとどのくらいか?』と尋ねるとまだ1時間はかかるとのこと。相当疲れていたがしかたなく、ほうほうの体で進む。ヘアピンカーブを上り、ようやく秩父湖の駐車場に着いた時にはもう暗くなり。一度座り休んだが、この時初めて、疲れて立ち上がれない状態になったが、何とか本当になんとか立ち上がり、これからまだ急な坂を上っていった。すでに雨もやみ暗くなった国道を押して歩き、途中から山道に入り、ほうほうの体で秩父YHについた。PM7:30頃だったと思う。

実に15時間半。まだ中学3年を卒業した春だった。

これが初めての峠越えであり初サイクリングであった。

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NC誌(1977/5)創刊150号特別増大号50ページに 正丸峠 はこう書かれている。

 

 正丸峠 650m(秩父 (( )は5万分の一図名称))

 

 

 

古くは鎌倉峠・秩父峠とも呼ばれて、東京・秩父間の最短路である。全舗装、峠上は展望はよいが、交通量がかなり多いので注意が必要。

 

 

令和を迎えた現在では、交通量も少なく、この下を長さ1918mのトンネルが通っている。

 

暗く音が恐ろしいトンネルで抜けるのは楽しいものではない反面、多くの登りを考えると楽ではあるが、はやり、トンネル横から逸れて、旧道の坂を上って行くのがやはり今でも楽しいのである。

 

 

 

リニア見学と鈴懸峠

久々に寄稿。

先日の日曜は久々に晴れたので、山梨県大月周辺へ走りに行った。

猿橋近くの無料の駐車場に車をデポし、大月駅で仲間と合流。

早々に出発し、R139は交通量も多いので、桂川対岸の車の少ない道を走り、

山梨県立リニア見学センターへ。 惜しくもこの日は走行はしていなかったが、

施設そのものは見ごたえのあるものであった。

 

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 しかし、近未来にリニアが走ると、時間短縮が実現になり、かなりサイクリングのエリア移動も楽にはなるが、(何しろ東京ー名古屋 1h位)南アルプスをトンネルで抜いたり自然環境破壊への懸念も考えられ複雑な気持ちではあるが。

見学ののちは、道の駅にて、昼食を購入し、秋山街道へ。この日は蒸し暑く日々の不摂生か だる重走り で少しつらい。

途中何回か休憩をはさみ、石船神社で左に折れ、鈴懸峠 へ向かい登りだす。

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相変わらず暑く、バテ気味だが、木陰もありそこそこあり、1時間ほどで峠につく。

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ここで先程、道の駅で購入した肉巻おにぎりを昼飯で食べる。なかなか美味。

しばし休憩ののち、下りだす。

今回は新人を連れてきた為、後ろにつきながら、ブレーキタイミング、カーブの仕方

ペダルの位置等を指示しながらゆっくり下る。

一人であればカッとんで下るところだが、ま、これも後輩育成のため。

暫く山の中、山村を下り、R20にでる。

ここからは車をデポしたところが近いので皆と別れ、車まで行く。

帰りは途中、藤野の温泉などに寄り、のんびりとしたの道で帰宅。

2か月ぶりに走ったがやはりいいね。

 

 

 

 

 

 

 

ブリジストンユーラシアグランツーリング(EAG-T2)フレームサイズ550

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ブリジストンユーラシアグランツーリング(EAGT1・T2)


前回に続いて、昔の自転車雑誌。(1979年3月号 サイクルスポーツ裏表紙)

サイクルスポーツ この雑誌はサイクリングを始めた私にとってはまさにバイブル。

当時の知識では、ブリジストン 丸石 宮田 片倉 水谷 セキネ 丸紅山口 と

自転車の世界はメーカーが数あり、中国での生産なんてまだ考えられない頃だったので

生産効率や受注生産なんてなく、各メーカーには必ず、ロードレーサー(今のロードバイク) スポルティーフ ランドナー キャンピングの4つはシリーズとして、各メーカーでそろっており、旅にあこがれた私は、キャンピング車がまずほしかったが、

当時はとても手が出るものではなかったし、まだまだ経験不足であった。

 そこで購入したのは(親に買ってもらったのだが)ブリジストンユーラシア EAGーT2 当時のブリジストンは、グレードごとに分かれており、それぞれ大陸な名を

付けており、最高級がアトランティス 次にユーラシアとなっていた。

ユーラシアも2グレードあり、低いランクの物は、確かフロントホイールが

クイックではなかった。一段階上のユーラシアグランはクイック方式であった。

 

また、この頃はユーラシアの下にロードマンというやはりドロップハンドルで

廉価版があったが、これはいわゆるサイクリングには向かないと感じていた。

ドロップハンドルを始めて経験するいわゆる入門版の様なもので、黒いセミドロップのトップチューブに変速機が付いているものから卒業したての人が使うようなものであったと思う。

また、そのころのユーラシアはフロントのギアがまだダブルで、48×34 他のメーカーも同様にフロントはダブル リアは5段の14~24というものがほとんど標準であった。

そんなメーカーについていたパーツが中には、ビンテージ物として扱われる物も

今の時代においてはあるが、当時はほとんどそのような意識はなく、また部品も

標準的に手に入るものであった。

 これら大陸シリーズの前に、ブリジストンとしては、高級車種としてアトランティスの前のダイヤモンドシリーズがあり、当時のダイヤモンドのランドナーは何と、フレームをレイノルズ531というフレームに変えることができたのである。

その当時、レイノルズ531は皆のあこがれのフレームでメーカーがこのような対応を

していたことに驚きを感じる。

実は家にも売ってほしいとBSダイヤモンドのフレームを預かっているのだが、(531ではない)がヤフオク等に出品するのも面倒なのでそのままである。

そのうち、誰かがほしいという話を聞いたら引っ張り出して売ろうかと思っているが

いつになることやら・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔の自転車の雑誌を引っ張り出して



最近、昔の自転車の雑誌を引っ張り出してきた。

長年、自転車をやっていると、それなりに色々とたまってくるもので、その中の

一つが自転車の雑誌である。

 

当時毎月、刊行されていて、その都度、楽しみに書店に買い求めに行ったもので

ある。前の雑誌なのだが、貧乏性というかなかなか捨てられずに今だ結構な冊数を保持している。

そんな中、今回、自転車を始めた当初の雑誌を引っ張り出してきたのがこれだ。

 

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サイクルスポーツ1979年1月号 これから雑誌のサイズが変わるまで集めることになる

かなり前の雑誌なので詳細は省くが、10代~20代の若者が(当時の私も10代半ば)いろいろ苦戦しながら旅を続ける投稿記事や今では廃業や閉店してしまった当時のサイクルショップ広告。

はたまた、今ではビンテージパーツとなっている当時の自転車部品広告。

当時はまだ、オークションなんて考えもしなかった時代であったな~

 

そんなんで、今回ブログを始めてみましたが、この雑誌を引っ張り出したことによってこれから昔の自転車の雑誌やその他、家に埋もれているパーツなんかを紹介していきたいと思っている。

もちろん今でも 自転車旅は続けているので、気が向けばツーリングレポも紹介したいと思っている。